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■ キイロスズメバチに立ち向かうニホンミツバチ [「能勢川バイブルキャンプ」の自然]

■ キイロスズメバチに立ち向かうニホンミツバチ
  ー ニホンミツバチ(その2)ー

日本ミツバチ_080909.jpg
<撮影日:2008.9/9  ニホンミツバチの巣(電柱の中)>


*<キイロスズメバチに立ち向かうニホンミツバチ>
日本ミツバチの巣には、ちょくちょく「キイロスズメバチ」がやってきます。
すると、巣の入口にいるミツバチだけでなく、巣から次々と仲間が出て来て、入口の周りにかたまってスズメバチに立ち向かいます。ニホンミツバチは入口から下にロープのようにつながって止まり、キイロスズメバチが近づいて来るといっせいに羽を激しく動かし、また、胴体を左右に振動させます。
これで、スズメバチの目をくらまし、目標を定められなくするのでしょう。

キイロスズメバチ_080829.jpg
<ホバリング(空中で静止)している キイロスズメバチ>
 (離れた一匹のニホンミツバチを狙っています。)

日本ミツバチの防御.jpg
<左側のキイロスズメバチに対して、激しく羽を動かし胴体を左右に振っているニホンミツバチ>

キイロスズメバチは、巣の周囲を飛び回りながら近づきます。
すると、何匹かのミツバチが固まってハチの帯が崩れるように下に落ちて行き、また飛び上がって仲間の固まりに戻って来ます。
この様子が、結構長い時間(2〜3分、ときには、5分くらい)繰り返されます。
画像は荒いですが、その様子をムービーでご覧下さい。
(Docomo P506iC は、一回の撮影時間は15秒です。 MacBooK の QuickTime Pro で画像をつなげています。)


<撮影日:2008.8/29 午後3時頃  撮影器材:Docomo P506iC>

しばらくして、キイロスズマバチはあきらめて飛んで行ってしまう場合もありますが、狙いを定めた一匹を捕まえ飛び去ります。 肉団子にして自分の巣に持ち帰り、幼虫に与えるのでしょう。
こうしてキイロスズメバチが去ったあとのミツバチの巣の入口は、少しの間、静かになります。

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*<自分を差し出しているようなミツバチの行動>
良く観察していると、縄のようになって体を振動させているミツバチたちからあえて少し離れ、羽を震わせている一匹のミツバチがいます。
(上段の二枚目の写真をご覧下さい。)
時には、キイロスズメバチはこのようなミツバチに狙いを定め、捕獲します。
どうも、あえてそのような行動をとるニホンミツバチがいるように思えます。

自分が捕まえられる(スズメバチの幼虫の餌になる)ことにより、仲間や巣を守るのかもしれません。
一斉に、あるいは、波状的に羽や体を震わせてキイロスズメバチの目をくらましたところで、巣の周りをホバリングして狙っているスズメバチの状況はなかなか変わらないからです。
その一匹が捕まえられ、キイロスズメバチが去って行くと、しばらくの間(数十分から数時間)、巣の周囲は静かになります。そして、数多くのミツバチは花の蜜や花粉を携え戻って来、自由に巣穴を出入りするのです。

これは、私(Peter Pooh)の、一見解ですが、もし、ニホンミツバチがこのような行動をとることが出来るように、生まれながらにその能力(意志、思い、願い、行動といったもの)を持っていたとしたら、これはすごい発見です。
そのような能力は、本来、創造の神が被造物である「人間」に与えられたものなのですから。

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「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」とイエス・キリストは語られました。家族や仲間のために「身を捨て」て彼らの「いのち」を助けることは、「愛」のうちでもっとも大きなものだというのです。

イエス・キリストは、私たちすべての人間の罪を一身に背負い、十字架の上で身代わりの死を遂げられました。 

「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネの手紙 第一 4章10節)」

もし、一匹の「ニホンミツバチ」が仲間のために、自分のいのちを差し出していたとするなら、それは、人間に与えられた愛、救い主イエス・キリストの十字架の愛につながるものです。
神が創造された大自然、動物や植物は、なんと奥深いものでしょうか。

「キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。 ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」
(ペテロの手紙 第一 2章22節〜25節)


Golgotha_83.jpg
<画:宮地聴(みやち おさむ)>
 (『ゴルゴダへの道』 1983年  第15回 日展入選作品)

*上記の絵画は、作者とそのご家族より掲載許可を受けています。
 (サイト管理人: Peter Pooh)







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